受験の季節になると決まって思い出すことがある。それは受験の時期だけ、民間のお宅が受験生に自宅を開放してくれたことである。
今を去る50年も昔、私は金沢大学を受験した。まだ新幹線もない頃のあの「三八豪雪」の年である。後で聞いたが、あまりの雪の深さに、その年の入試が果たして無事実施できるかどうか大学側でも随分危ぶんでいたという。私は兵庫からの受験生であったので、家族も心配し母親が付き添って行くことになった。母にとっても初めて足を踏み入れる北陸の地、あんな遠い所に女の子一人ではとても行かせられないということであった。
入試要項を取り寄せたら、何と金沢大学は学生部が中心になって受験生のために民宿を斡旋してくれるという。今でこそ金沢駅前にはいくつもの立派なホテルが立ち並んでいるが、当時はまだ何もなかったし遠方からの受験生にはさながら福音の様な知らせであった。何と親切な大学だろう、絶対ここに行こうと思った。
入試前日、学生服に身を包んだ先輩達が駅に出迎えそれぞれの家へ受験生を送り届ける。案内されたお宅は間口が狭く奥行の長い、伝統的な金沢のお家で抽斗付き階段の二階和室に通された。富山からの女子高生も同宿の賄い付き。私達は入試の事で頭が一杯だったが、母はしきりとこのお宅のおもてなしに感謝していた。お陰で何の心配なく三泊四日の入試を終えることができ、無事サクラサクの合格通知も貰い、4月入学式翌日には、母と一番にこのお宅にお礼に行った。それだけでなく、私は2年、3年と進級する度、アルバイトとして、この案内役に応募した。せめてもの恩返しである。お陰で金沢の町も、交通事情(当時は市電も走っていた)も熟知することができた。
今思うに、当時は人の心も、社会全体もまだまだ「助け合い」が当たり前のこととして残っていたのだろう。冬になって雪便りを聞く度、あの雪道を、先に立って黙々と歩き道案内してくれた名も知らぬ先輩の後ろ姿を思い出す。お世話になったお宅は卒業後数回訪ねて行ったが、今は取り壊されて新しい道路になっている。金沢の街も随分変わったが、あの街に住む人々の温かさや佇まいは、今尚、そして今後も変わるまいと思われるのである。
(品川区/A・N)
posted by 1039 at 14:45| 東京 ☀|
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●旅先で…ありがとう
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